第四話:真神家、家訓
四月一八日。午後二時三三分。
日が沈むには早過ぎる時間帯。しかし、現にこの『世界』の日は沈んでいた。夜が来ることを知らせていた。
黄昏に沈み・・・・・・・・・紅色に染まる、存在すること事態が奇怪な校舎の廊下を歩きながら、あたりを見渡しつつ前を行くアヤメに久遠ユウコは、恐る恐る声をかけた。
「ちょっと・・・・・・アヤ?」
「なぁに?」
「ここの壁って・・・・・・・・・」
「気にしない、気にしない」
どこまでも軽い調子の返答。その返答はこの場の雰囲気にまったく合っていない。
壁にあるシミ・・・・・・・・・苦悶や嘆き、それに怨嗟で張り付いたかのような、壁の模様の全てがユウコには人の顔に見えた。総毛立たせるに十分だった。
――――どれもこれもが人の顔に見え、断末魔のように開かれた口が時折、ナメクジのように蠢いている・・・・・・・・・唇を読めば“カエレ、カエレ”と繰り返している。
「これはワタシ達に冷静な判断をさせないための演出よ。ホラー映画で使い古されたパターンね?」
にっこりと微笑んで言うが、ここは現実で。
眼に映るものはどれもが生々しい。
「それにこの程度なら、面白くもないわよ。遊園地のお化け屋敷ほうがよっぽどマシね」
絶対、アヤの精神構造はおかしい・・・・・・・・・そう、ユウコは思い始めてきた。
何より、この異常な世界に放り込まれたというのに、まったく臆さないどころかますます存在感が強まっていく。
堂々としか形容できない足取りで、廊下を進むアヤメがぴたりとある教室の前で止まった。何かを感づいたのか、眼差しは鋭く射抜くように教室を見詰める。
二年C組の教室に、静かな笑みを零す――――朗らかさの内に秘めた不敵な笑みで。
「見つけた・・・・・・・・・」
呟いて、教室の引き戸を開けて迷う事無く中に入っていく。慌てて追いかけてユウコも入ると、そこの教室は正常だった。
至って普通の教室である。黒板や机の並びなど、何処にでもある学校の一風景に過ぎない。そこに、一人の女の子が居た。
夕闇のせいか、または長い髪が影になっているせいか・・・・・・・・・顔は見えないが、セーラー服で少女と判る。
一番後ろの席にぽつんと、窓際の席に取り残されたように。
机に視線を落としたまま、ピクリとも動かない少女。
どうして机を眺めているのかとユウコも机に視線を移すとうっ・・・・・・と、小さく唸ってしまった。
気取るな、エセ御嬢。
暗い、キモい、消えろ。
ゲロの匂いがする。
死ねば?
ば〜か。
自殺して♥
――――そんな、無知ゆえの罵詈が机に彫られていた。
相手にどのような気持ちで〈これ〉を読むかと、悪意の想像力で書いた人物達。子供だからと許されない。
悪意しかない単語の羅列に、ユウコは嫌悪感が湧き上がる。
「吐き気がするわ・・・・・・・・・」
ユウコは知らずに呟いた。虐めを受けた経験が言わせる、重みのあるセリフにアヤメも頷いた。微笑みの質を一八〇度変えて、机を見詰めた。
「こういう輩は、死刑が一番いいよね? 何でそういう法律がないのかな?」
「怖いよ・・・・・・・・・あんたなら殺りかねないから・・・・・・・・・」
同意を求めないでよ・・・・・・・・・内心で呟きながらも、少女へと視線を移す。
その文字を、どのような気持ちで見ているのか・・・・・・・・・身動き一つもせずいる。そんな少女にアヤメは近付いた。
机の横に立ち、優しい眼差しで。
「酷いね〜他人のものをこんな風にするなんて。ワタシならこんなこと書いた奴らは、クラス全員まとめて私刑にしちゃうな」
朗らかな聖母の微笑で、物騒なセリフを言うアヤメ。ユウコは溜息を吐いた。
――――あぁ〜あったよね〜宣言して、あんたは殺ったよ。うん、理想的な半殺しだったよ。
「あなたはやり返そうとか、思わなかったの・・・・・・・・・いいえ、やってしまった後かな? 磯部綾子さん?」
ぴくりと――――セーラー服の少女の肩が動く。
「一応、声は聴こえるみたいね? ワタシ達はイジメにきたんじゃないの。ワタシ達はあなたとお話しするために来たの」
アヤメの母性に満ちた声音に、ゆっくりと首を動かす。しかし、顔は夕闇の校庭へと向ける・・・・・・・・・
「ワタシ達はお医者さんなの。あっちにいるのが、久遠ユウコちゃん。そして、ワタシは如月アヤメって言うの。よろしく〜」
よろしく〜って自己紹介している場合じゃないと、ユウコは胸中で舌打ちする。しかし・・・・・・・・・何て、寂しい空間だろう。
中、高と学校にいい思い出が無いユウコでも、教室とかには懐かしさや青春の匂いがするものと、大人になってから感じていたが・・・・・・・・・ここにはそんな匂いも、感慨も沸かない。
寂しく、辛い・・・・・・・・・思春期を過ぎ去ったはずなのに、心が締め付けられるような痛みが走る。
共感する部分があるのか、鼻腔の奥が刺激されて目頭から涙が零れそうになっていた。
がり勉とは付き合えないと、勇気を振り絞って初めて告白した先輩にふられ、クラス中の笑い者になった時期・・・・・・・・・でも、楽しかったこともあった。
補習で体育教師にセクハラされそうになった時、アヤメがバスケットボールで強かにぶつけて撃退した時などは、腹を抱えて笑ったものだ・・・・・・・・・でも、傷付いたのは確かだった。笑い飛ばしたいだけで、無理矢理笑って――――
「ユウちゃん!」
「えっ? なっ、何!」
アヤメの眼差しと声音にはっとなったユウコは、いきなり襲い掛かる虚脱感に頭を振って撃退しようと試みる。
頭が重く、深酒のような酩酊感。横隔膜からこみ上げる吐き気に、ユウコは涙目になっていた。
「大丈夫? 気をしっかり持ってね? そうじゃなきゃ、呑まれるからね?」
稀にしか見ない、アヤメの真剣な眼差しにユウコは素直に頷く。アヤメは安心したのか、ほっとする表情も束の間にし、視線を少女へと向ける。射抜くなど、生易しいかった。刺し穿つ眼光だった。
「何を悩んで、何に苦しいんでいるのかワタシには解らない・・・・・・・・・でも、話してくれなきゃ、何も進まないわよ?」
厳しさすらある、最後通達であった。
これ以上何も言わないなら、それ相応の処置に出ると脅迫する迫力。そして、アヤメにはそれが出来る・・・・・・・・・今まで、そうやって高校で起きた超常現象トラブルを解決してきたのだから。
「あなたがこの場所で引き篭もるのは自由よ。でも、巻き込んだ人達は解放してくれないかしら? まずはそこから始めましょう?」
アヤメの一言一言に、優しさが含まれていた。
童女のような微笑みに、母性を象徴する眼差し。
長い付き合いがあるユウコですら、ときおり見惚れてしまう素顔だ。
少女はその言葉に、肩を小刻みに震えていた。肩を小刻みに震わせながら・・・・・・・・・緩やかに哄笑した。
哄笑と共に、顔がアヤメに向けられた。首を三六〇度回転させてケタケタと嘲笑う。
真っ赤な双眸にげっそりとした頬を裂いて、唇が半月に描く。
「イヤヨ・・・・・・・・・ドウデモイイモノ」
アヤメは、かっと目を見開いて高速のバックステップを刻む。
刹那。先ほどまでアヤメの居た床を貫通して、天井に突き刺さる巨大な触手を紙一重で躱したアヤメはユウコの横に着地。
仕留めそこなったことを憤慨するかのように、床を砕きながら姿を表したのは、天井にまで届きそうな百足の化け物であった。
ユウコの肉眼では、アヤメの姿を追えない。白線が疾駆したようにしか見えず、床を穿ち現れた百足の化け物と、何時の間にか横にいるアヤメに目を白黒していた。
「そう・・・・・・・・・どうでも良いの。ワタシとしては話合いで解決したかったけど、そう・・・・・・・・・なら、大人気無いけど〈何でもあり〉でいくね?」
言下――――閃光とともに紅い翼が羽ばたき、ユウコの視界にあの美しい聖鳥が現れる。
【オン ギャロダヤ ソワカ】
あの厳かで静謐に世界を震わす真言が唱えられる。しかし、今回は激しく荒ぶるように――――転瞬、黄金色の炎が荒れ狂いながら百足と言わず、教室全てを浄化するかのように燃え広がる。
迦楼羅焔――――不動明王の火焔型光背の中に見られ、迦楼羅=ガルーダが翼を広げた姿を模したものと言われている。そして、アヤメはガルーダを行使することにより、水だけではなく炎も操ることが可能。
穢れを洗い流し、悪は喰らい尽くすかの如く焼き払う。母性と激情の二面性を持つ、如月アヤメの根源そのものとも言える。
轟々と燃え盛り、人間のような断末魔をあげる百足。黄金の火焔すら動じずにいる少女は哄笑とともに、猛火の中で音も無く影のように消え去った。
無言でそれを眺めながらアヤメは変身を解き、迦楼羅焔の静めさせる。
聖焔はアヤメに従うように消え去ると、あとに残るのは机も黒板も灰となった破壊の後。そして、カビと異臭が支配する不気味な教室となっていた。
終止、あっけらかんとしていたアヤメであったが、少女の眼を見てから表情は厳しいものとなった。
「ユウちゃん? 磯部綾子さんの事はどれくらい知っているの?」
迦楼羅焔の凄烈なまでの輝きに、魂が抜けたように呆然としていたユウコは一拍遅れで、ようやっと振り返った。
暫時、思い出しつつ言葉を紡ぐ。
「えっ・・・・・・・・・と、確か二年前に精神科通いしていて・・・・・・・・・両親の離婚とかイジメとかで・・・・・・・・・」
「でも、意識不明でしょう? どんな事故だったの?」
「解らない・・・・・・・・・ただ、半年前自分の部屋で手首を切って、自殺しようとしたみたいよ。即、救急車で運ばれて、一命は取り留めたわ。でも、これが意識不明になるような原因でも何でもないのよ。それに、それが初めてじゃないのよ。自殺未遂はあれが最後だけど、合計で四回目」
――――初めてではない? しかも、四回も。
アヤメは小首を傾げるのを見て、ユウコは頷いた。
「えぇ。最初は去年の夏に飛び降り自殺。地下鉄で身投げ。睡眠薬を服用して川へ身投げ。でも全部、未遂。ギリギリで助かっているわ。死にたがっているのに、何度も死に損なうってすごく皮肉よね・・・・・・・・・」
肩を竦めるユウコ。しかし、すぐに自分の言った言葉の中で疑問符が浮かんだ。
「・・・・・・・・・って、ちょっと・・・・・・・・・まさかさ・・・・・・・・・地下鉄で身投げって・・・・・・・・・」
「うん。ワタシも同じ事を考えてる」
意図を読んで頷くアヤメ。
血の気が引いて、愕然となった。慌てて苦笑しながら頭を振る。
「そんな、嘘でしょう? 身投げして助かった理由って電車を・・・・・・・・・まさか?」
「その〈まさか〉だと、思うよ」
アヤメが話した、多感な少女が心の中に父親を閉じ込めたように・・・・・・・・・電車を閉じ込めて、磯部綾子は助かったのか?
「そんな、まさか?」
「だから、〈まさか〉なのよ」
「それじゃ、自殺未遂した四回とも・・・・・・・・・?」
アヤメは再度頷いた。
飛び降り自殺も、地下鉄で身投げも、睡眠薬による自殺も、手首を切っての自殺も。全て、磯辺綾子は精神内で取り込んだ・・・・・・・・・と?
「まずいよね・・・・・・・・・」
唸るように呟くアヤメ。
精神内で取り込んだと理解は出来たが、現実世界に至るところに入り口があると考えることも出来る。
「ここはもう、完全に彼女の領域ね。その上、感染するように範囲を広げようとしているのは、ワタシが来たせいでもあるし・・・・・・・・・」
磯辺綾子の紋章を用いて、外にいる駿一郎と同調しただけで、逆探知よろしくとばかりにばれてしまった。
きっと、店は無事だと思うが、弥生と鷲太も巻き込まれている可能性は否定できない。
どん詰まりのお手上げと言えた。最終手段の判断が迫ってくる。
しかし、最終手段だけに躊躇いもあり、このような結界を張り巡らせた磯辺綾子には同情を禁じえない。
別にイジメや離婚のことではない。
外法、邪道、魔生を極めて制する退魔の女王に知れたら、浄化の炎では済まされないだけだ。何もかも、力で捻じ伏せるのがアヤメの織る京香である。
弱い人間には厳しすぎる女王である。丸く収まることなどある訳が無いのだ。
四月一八日。午後二時三五分。黄紋町国道六六号線。
怒りをクラクションに乗せて、前方の車に浴びせまくるドライバーが運転する車に挟まれ、ラージェ一行は渋滞に巻き込まれていた。
ハンドルを握り、人差し指で苛立ちながらリズムを刻む霊児。
腕を組み、微動もせずに佇むカイン。
後部座席で一人、窓を覗き歩行者よりも遅い車に溜息をつくラージェは、運転席の霊児に視線を移した。
「レイジさん? この渋滞は何時まで続くんですか?」
「オレもそれが一番知りたいよ・・・・・・・・・」
ラージェへ返答しながら、腕時計を見ては前方へ戻すという事を幾度となく繰り返していた。
霊児は今、焦っていた。
予定ではもう、高速道路に着くはずだったのだ。ラジオで流れた情報によると、先頭車両で衝突事故が起きたらしい。
(ラジオのニュースは・・・・・・・・・確かフェラーリとポルシェがカーブでブレーキを踏まずに事故を起こしたんだっけ? しかも、その前を走っていたフィアットを追っかけるようにして、衝突事故だぁ? 何でフィアットを煽る必要がある! クソったれ! 頭おかしいんじゃないのか?)
胸中で罵詈を幾度となく繰り返していた霊児に、カインは溜息をついて横目を向けた。
「少しは落ち着け。時間は十分ある」
「ウルセェよ。人の気も知らないから言えるんだよ」
「何を焦ってるのだ? 早く鬼門街から出たいように見えるぞ?」
心臓が一気に冷却される。ずばりと核心を突くカインに、表情には苦笑を。内心で深呼吸してから言葉を紡ぐ。
「焦るぞ、普通? 日曜の動物園は結構込み合うし、駐車場だって空いているかも解らないからな」
ふむ、なるほど。と、カインは納得して頷いた。ラージェに楽しい休日を提供したいのは霊児の本音でもあるため、言葉には真実味がありありとあった。無用なトラブルだけは避けたいことも含まれているが。
しかも、この魔術師が跋扈する鬼門街である。
聖堂の女教皇ラージェ、聖堂枢機卿長カインの首を欲しがる連中は、世界各地に腐るほどいるのだ。この鬼門街だけが例外などとは思えない。
霊児は冷静に分析しながらも、聖堂本部をふと思い出した。
「なぁ? でも、良いのかよ? オマエやラージェちゃんが留守の間、誰が本部の留守を預かっているんだ? 確かオマエ以外の七騎士全員、霊地の支部長だろ?」
聖堂七騎士は滅多なことでは本部へ足を踏み入れない。世界各国の霊地に支部を置き、その支部の責任者という立場である。
そう言いたい霊児に、カインは余計なお世話とばかりに笑みを浮かべる。
「訂正を要求する、ミドー卿。お前以外の七騎士が支部責任者だ。お前に鬼門街の支部管理を任命した覚えは無い。俺の記憶違いでなければ、帰還命令を出しているはずだが?」
「揚げ足をとるな。質問に答えろ」
徐々に険悪なムードになるのを、ラージェは二人を見渡しながら慌て始めていく。
しかし、先に折れたのはカインだった。大人気なかったと、溜息を吐いて肩を竦める。
「そうだな――――現在、聖堂本部には聖堂第四位のマキシ卿が、俺の代理で留守を任せてある」
「巻士が? ローマにいるのかよ?」
霊児にとって、巻士令雄は五年前の真祖狩りで組んだことのある仲間の一人である。
そして、カインとは旧知の戦友。ラージェから二代前の女教皇暗殺から、教皇に着任した先代女教皇レイラと共に、聖堂を立て直した人物である。
「なら安心できるな。万が一でもない限り、アイツ相手に勝てる魔術師はいねぇ」
掛け値無しの評価である。背中を預けた仲間に対する、最大限の信頼からくる言葉だった。
「安心したなら、改めて揚げ足をとらせてもらう。お前には帰還命令を何度か出している。それを無視している理由は何だ?」
また、それか・・・・・・・・・溜息を吐いて視線を前方に向ける。嫌気が刺すほどの渋滞に眼を移しても、気持ちも風景も変わることは無い。
「鬼門街に拘る理由は、判断できる。しかし、人探しなら別の者にも出来る」
「・・・・・・・・・・・・」
「お前には人材育成を担っても貰わなければならん」
「・・・・・・・・・・・・」
だんまりか・・・・・・・・・と、カインは唇を引き結んだ。
一番、言いたくない言葉を選択する苦渋に満ちた顔で言葉を紡いだ。その一言が、自分も傷付けることを承知で。
「キリエとマキエのことは仕方が無い」
「・・・・・・・・・・・・殺すぞ、カイン?」
刃物が突き刺すような殺気に、後部座席に座っていたラージェは血の気が引いた。
前方を見ていながらも、無差別に車内を穿つ霊児の殺気。
それを真正面から受け止めるカイン。
「昔のお前なら、その言葉を言う前に俺を切り刻むために刀を抜いていた・・・・・・・・・」
言葉とは裏腹に、カインの表情には微笑すら浮かべていた。
サングラス越しでも解るカインの優しい声音に、ラージェは驚きの顔がバックミラーを写していた。女教皇着任から一度も見たことの無い優しい声音に。
しかし、霊児は舌打ちして殺気を押さえ込んで前を向く。
「説教なら他所でやれよ。アンソニーとか、ミナにでも。あと、キチガイのギョウスだ。説教の甲斐があるだろうが?」
「奴等に言葉という上等なものは無い。拳で充分だ。だが、お前にはただのお節介だ」
「余計なお世話だぜ・・・・・・・・・てめえに心配される義理はねぇ」
「義務はある。曲がりなりにも部下だからな」
何が面白いのか、カインは苦笑して前を見る。霊児も鼻を鳴らして同様に前を向く。
ようやっとレッカー車が付いたのか、車の流れが再開し始める。二人の会話にある雰囲気に羨ましそうに微笑む。
ラージェは、いつか自分にもこんな友人が欲しいと願いながら。
四月一八日。午後二時五九分。駅前デパート前。
いきなりクラクションが私の背後で鳴り響いた。
これで三回目である。生きているだけで無駄に思えるナンパな男達に、どういう言葉を言うか頭の中で模索しながら振り返った。
「よう! 私と一緒にドライブしないか?」
フィアットの窓を開け、ニヤリと笑う赤い髪の女性――――私は一瞬、目を瞬いてすぐにフィアットに駆け足で近付いた。
「京香さん。お帰りなさい」
「うむ、苦しゅうない。さぁ〜さっさと乗れよ。これから、このバカ息子をコーディネートするぜ?」
ふと、助手席に眼を向けると誠もいた。ただし・・・・・・・・・顔は青ざめ、頭を抱えてブツブツと何事かを呟いていた。
「何で、フィアットでスポーツカーに勝てるの? 何で、直角カーブを一七〇キロで曲がれるの・・・・・・・・・?」
きっと、京香さんの運転技術に車酔いをしているのだろう。この人の運転は上手だが、とても荒っぽいのだ。
京香さんの運転に慣れている誠ですら、ガタガタと震えているところを分析するに、京香さんはご機嫌なのだろう。
「解りました。ですが、くれぐれも安全運転で」
「解っているって」
「くれぐれも事故を起こさせないように」
――――特に他の自動車とかを。
私の言葉の意味が解っているか、微妙な笑みになる京香さんは口笛を吹いて誤魔化そうとする。
そんな養母の仕草に溜息を吐きながら、私はフィアットの後部座席に乗り込む。
「じゃあ、シートベルトつけろよ?」
「・・・・・・・・・母ちゃんが言うと、すげぇ〜無意味に聞こえるから不思議だ・・・・・・・・・」
誠の突っ込みに、京香さんは笑顔で裏拳一閃。
骨と肉が強かにぶつかる異音を発して、誠の後頭部がシートに沈んだ。頑健な誠を一発で静かにさせる一撃は、何時見ても驚異的だ。そしてフィアット発進。
「さてと、このバカチンをどういう服着させようかな? 楽しみだな、美殊?」
「服を買いに行くというと、ブティックに向かうんですか?」
「そう、春物とかがもう売ってると思うし、あと帰国ついでに顔出さなきゃな」
京香さんの職業はブティック経営兼デザイナーである。
よく、私と誠に自分がデザインした服をプレゼントしてくれるが、誠は渋い顔をしてその服を着たがらない。
本人曰く――――派手過ぎるらしいのだが、私は誠ならかなり似合うと思うのだが?
「とりあえず、お前等は新作の試着とかにも付き合ってもらおうかな」
えぇ〜と、復活した誠が苦渋の面になる。
こちらも驚異的な回復力だ。
「嫌だよ。母ちゃんの服は全部、派手すぎでおれの趣味に合わないよ」
「何だと? 私はお前や美殊に似合う服をデザインしてるんだぞ?」
「本人の意思は? おれの嗜好とかは考えないのかよ?」
溜息混じりに頭振る京香さんが鋭い眼光になった。
「真神家家訓その一!」
いきなり叫び出す。真神家家訓とは、我が家の家訓であり伝統行事だ。
「やられたら万倍返し」
「その二!」
「ダチと家族には優しく」
「その三!」
「ダチは撃つな」
「その四!」
「母ちゃんには逆らうな・・・・・・・・・って」
真神家家訓を言い終わってから、誠は頭を抱えてしまう。
「今時、家訓なんて流行らないよ?」
その言葉に、私と京香さんの顔に驚きが浮かんだ。
「良いじゃないですか。それだけ家族の絆が強いことを現しているんですから」
それに私は結構、好きなんだけどな。
「美殊の言うとおりだ。それに最後以外はずっとあったご先祖様の伝統だぞ?」
八〇〇年の重み・・・・・・・・・良い。真神家の口上も好きだけど、こっちも中々だ。
「こんなのが・・・・・・・・・先祖代々あるのかよ・・・・・・・・・」
何故か誠はますますげんなりしていく。
フィアットは軽快に交差点を右折し、歩行者天国の裏側にある社員専用駐車場へと入っていく。
「ホレ、ホレ。とっと覚悟を決めて私の着せ替え人形となれよ」
シニカルに笑って車からおりた京香さん。続いて誠と私も、京香さんの後に続いて店の裏口から入る。
ブティック京香。歩行者天国に沿って建てられているこの店の評判は、一〇代後半から三〇代前半の客層を集めている。
カジュアルさとオリジナルティーが服の特徴で、特に色のバリエーションが多い。単純に原色は無く、スクールファッションからバイカーファッション。そしてスーツまで仕立てる。
欧州を中心に人気が集中していて、おしゃれな地元人が必ず顔を出すという黄紋町の、隠れた名店でもある。
「オウ! お前等、久しぶりだな」
閉口一番。女性らしさの欠片も無い挨拶。でも、たった一言で、店員全員が振り返り、京香さんを取り囲んでいく。
京香さんを見ていると、不思議なことに優雅や気品ある淑女が、ただ着飾っただけにしか見えなくなってしまう。
類の見ない美貌とかだけではない。
美しいだけでなく美と剛の両面を持つ人だから許される、輝きとカリスマ。
憧れるにしては、とても届かない。それが、私にとっての京香さんだ。
「どうした? 美殊?」
立ち止まっていた私に誠は、怪訝と首を傾げた。
「いえ・・・・・・・・・何だか、すごいなって」
そうかな、と言いながら店員に囲まれて談話する京香さんに視線を向けると、鼻で溜息を付いた。
「おれにはレディースの頭にしか見えな――――」
しかし、誠の言葉は途中で途切れてしまう。
風切り音を発して誠の顔面に直撃するハンガーの慣性に従い、誠は後頭部から床に引っくり返ってしまう。
投擲弾道の向こうには、ニコニコと笑っている京香さんとオドオドしている店員の皆様。
「何処の世界の息子が、母親を侮辱するようなこというのかな?」
朗らかに笑っているが、目だけは笑っていない。寧ろ、必滅の眼光。
しかし、誠も負けていなかった。日々のトレーニングが顕著に現れ、腹筋の力だけですぐに飛び上がる。
「何処の世界の母親が、息子にハンガーをぶつけるんだよ!」
店員の皆様は立ち上がった誠に、小さな拍手が沸き起こった。
職場の人達は知っている。京香さんのパワーはそこらの不良を千切っては投げることも可能だと。しかし、度の過ぎた愛情表現で生きている誠を、舐めてもらっちゃ困る。
「チッ! 図体もデカクなって頑丈にもなりやがった。一発じゃ、仕留められないか・・・・・・・・・」
「オイ? 仕留める気だったのかよ?」
「まぁ、いいや。さっさと試着済ませるか」
「いや、良くねぇよ?」
「そうですね」
京香さんに頷くと、誠は高速で私に顔を向ける。首を傾げて何を言いたいのか口を開閉する。見詰めていると、誠は盛大な溜息を吐いた。
「良くないけど、さっさと終わらそう・・・・・・・・・」
「はい」
私は頷くと、何故か誠は泣きそうな顔で肩を落としていた。
何人かの店員さんが、誠の肩を優しく叩いたりするのは何故だろうか?
それから私と誠は、京香さんと店員の人に渡された服を持って、別々の更衣室へと案内された。
私に渡された服は、ぴったりしたVネックシャツ。袖と裾に絞り染めのような淡い紅がとても素敵だ。でも、何故か・・・・・・・・・おヘソが隠れない。そしてチェックのスカート。膝上から、かなり際どい短さ。
着てみて、そして、姿鏡に映る自分の姿を見て溜息が出た。
・・・・・・・・・色は好きなんだけどな。
「あの・・・・・・・・・京香さん?」
カーテンの向こうにいる製作者に声を掛けた。
「何だ?」
「あまりにも派手です」
「そうかな? 控え目だと思うぞ?」
「あまりにも控え目ではありません」
「あぁ〜それは仕方が無いだろ? それは夏物なんだから? 着たらさっさと見せろって? 恥ずかしがるなよ? お前はボン、キュッ、ボンなんだからさぁ?」
ボン! キュッ! ボン! と、効果音が付きそうなスタイルの人に言われても、嬉しくない・・・・・・・・・
しかし、この服を脱ぐにも京香さんに見せなければ終わらないため、仕方なしにカーテンを開ける。
腕を組んだ京香さんは上から下までじっくりと見る。真剣な瞳が、私の顔に向けられるとニタァ〜と、邪気たっぷりな笑みになった。
「うむ。眼に好いものじゃ」
悪代官のような笑い声を上げて、今度は私の更衣室から向かいにある誠の更衣室へと行く。
「オイ? バカ息子? さっさと着ろ」
「ちょっと待てよ? 何だこれ? 何? このヒモは?」
「ヒモ? あぁ〜それは手首に巻く」
「っうか? このジャケットなんだよ? 背中に『デンジャー』って? それにこれって革パン?」
「つべこべ言わずにさっさと着ろ!」
私は更衣室から出て、京香さんの横に立つ。京香さんはイライラと長い髪を掻いて、
「着なきゃ・・・・・・・・・解ってんだろうな?」
氷のように冷たい一言に・・・・・・・・・さすがの誠も、カーテンの向こうで急スピードに着替えていることだろう。
「きっ、着替えた。もう、着替え終わったから!」
息を荒げて叫ぶ誠が、カーテンを開けて飛び出した。
「へぇ〜」京香さんが軽く口笛を吹いて誠の格好を見詰める。
「・・・・・・・・・・・・」
私はリアクションなど出来ない。誠の格好を凝視するのが精一杯だった。
ノースリープにレザーパーカー。裾がカット・オフのレザーパンツ。パンク的なファッション要素だが、鋼の肉体を持つ誠が着ればとんでもなくセクシーだった。
それに普段は身に付けるのが嫌がる、首にチョーカー。ウォレットチェーンがさらに良い・・・・・・・・・
「結構、いいガタイになったな。嬉しい〜な」
にかっと笑う京香さんだが、誠の顔は渋い顔だった。
「なぁ? おめかしするって言ったけど、何かラフ過ぎじゃないの?」
「あぁ〜? その服は街とか出かける時に良いと思って、作った。ありがたく思え」
「背中のこのロゴつぅか、プリントは? 何故に『デンジャー』?」
困り顔になる誠の背中に回って見ると、確かにすごくド派手なプリントだった。
悪魔の顔が真中に描かれ、手に握るフォークでXを象っている。その頭上に、聖書の禁忌的な意味を持つ六六六という、獣の数字。フォークのX字の下に、ストリートアートのように書かれたスペルは『デンジャー』だ。
ある意味、誠の本質だ。
しかし、それを見て京香さんは大きな溜息をついた。
「あんな〜? お前はキレたら見境無しだろうが?」
親子ですね。と、そんな眼だけで解る視線を一身に受ける二人であるが、気付かない。今、ここの店員さんの心は一つであろう。
「だから自己申告しておいた方が良いだろう?」
「じゃ、母ちゃんもしろ」
止せばいいのに言ってしまう誠の顔面に、京香さんの拳がめり込む。が、後ろに数歩だけ下がり、誠は踏ん張った。
店員さん達の感嘆が響く。
京香さんのパンチ力を知っているから出てしまう感嘆だ。
きっと、男性店員の方々は身を持って知っているだろう。
「私は良いんだよ。見てすぐに火傷する女って解るからな」
クールに笑い、肩に掛かった髪を払う京香さん。誠は白々しい眼差し。しかし、すぐに溜息をついた。
「はい、はい。解りましたよ〜」
ふて腐れ五〇パーセントが加味した誠。ちょっと、可愛いな。
「自分で言ってりゃ世話ないし。それより、もう、着替えて良い? この格好はやっぱ、人の目が気になるよ」
それは仕方がありません、誠。あなたの身体は着痩せしますから、服の下にデンジャーな筋肉で構成しているなんて、誰も思わないですから。
しかし・・・・・・・・・あんまり、じろじろ見られるのも嫌だ。じろじろ見ていいのは、私だけだ。それに・・・・・・・・・さっきから服選ぶフリして、盗み見ている眼鏡の大学生がさらに腹が立つ・・・・・・・・・・・・
「そうだな・・・・・・・・・まだまだ次の服があるからな。美殊はもう、着替えていいぞ? 後は好きな服とかあったら、買ってやるぞ?」
いつも、誠の世話と家事をこなしてくれているお礼だ。と、京香さんは母親の微笑で言う。
「ありがとうございます」
「おれも良いの?」
軽くお辞儀する私に続いて、誠も自分を指して期待する眼差しになる。
「お前はダメ。私が選んだ服を買ってやる」
「どうしてだよ? 横暴! 悪代官!」
「うるせぇよ? お前はいっ――――つも! 白と黒しか着ないだろうが? しかも、家だとジャージしか着ねぇし! ブティック経営している母親のためにも、ファッションセンスに目覚めろっての、このバカ息子が!」
激昂の怒声に、さすがの誠もビックリしていた。
京香さんが憤慨するのは無理ない。私も誠の服装には一言あるほうだ。
「と、いう理由でまずこのシャツを着ろ」
しかし、先ほどの怒声をあげた人物と疑いたくなる微笑みで、数枚に重ねられたシャツを渡す。
受け取ったシャツと腕組をする京香さんを交互に見て、諦めたかのようにカーテンの奥へと入っていく誠の顔は、しょんぼりしたパンダみたいだ。
大人しくカーテンに入った誠を見送り、私はハンガーに掛けられた服を検分することにした。
その中に好みの服と、柄ものスカートを見つけた。
首から下まであるジッパー付きで、麻の白いセーター。赤のチェック柄に、大きめなベルトが二つあるスカート。しかし、今あるブーツには合わない。今あるブーツに合わせるため、スカートの柄は返るべきかと悩んでいた私の肩に、京香さんが腕を掛けてきた。
「決まったか?」
「少し、悩んでいます」
「そっか。あんま、遠慮するなよ? 水臭いのは嫌いだからな」
苦笑して頷く私に、京香さんはにっこりと微笑んでくれる。しかし、転瞬して耳元に口を近付けて来た。
「遠慮するなって言ってるだろう? 今なら誠の着替えを覗けるぜ?」
・・・・・・・・・・・・・・・
「覗こうぜ?」
「マジッすか? 自分の息子っしょ!」
舌先機能麻痺!
「私は良いんだよ。〈お前〉の、ご褒美だから」
あまりにも刺激的な提案に、舌なめずりしてしまう。
私の心にいる天使と悪魔が激しく主張する。
美殊天使の主張。
(いけないと思います。覗きは立派な犯罪です。例え、家族の仲だからといってやって良い事ではありません。それに、毎朝のトレーニングで誠の裸は見ている。よって、私が覗く理由などありえません)
美殊悪魔の主張。
(『ロマン』がそこにあるのだから、仕方が無いのです。それに『覗く』からこそ、良いのです。あの言いようの無い背徳感と快感を、京香さんだけのものしてはいけない。そう、これは私だけの特権です。それに、私が覗いたからどうだと言うのです? 私は毎朝、見ているのですから? 今更、覗きの一回や二回。数の内に入りませんよ?)
どちらの主張が勝ったのは、言うまでも無い。
心ではいけないと知りながら、足は勝手に京香さんの後を追っていく。私は何て、意思の弱い女なのか・・・・・・・・・
私はしゃがんでカーテンを捲って、覗き込む。ケタケタと笑いながら、京香さんも私の頭上でそ〜っとカーテンの隙間から覗き込む。
ちょうど、誠は渡されたシャツ一通り着終わったのか、上半身裸だった。
しかもベストアングルに、背中を向けている。うん? 背中を向けている・・・・・・・・・!
茹であがった頭がようやっと、冷静になった。
そう、誠の背中にある封印は既に二個外れているのだ。
七つの内、二つの輪が外れている誠の背中に眼を向けて・・・・・・・・・それから恐る恐る京香さんを見上げる。
ニタニタした笑みが、徐々に無表情へ。そこから、一気に激怒の表情へと変わった。
「誠ッ!」